魔を射る、魔を滅する

今週のお題「わたしの節分」

今年初めてお寺さんの節分会に行った。
南無妙法蓮華経のお題目を唱える坊さんの低音ボイスとリズムと楽しげなメロディでトランスと笑いに導かれた。豆まきは、信心深さよりお楽しみ会のようで、信仰は民の心の拠りどころであり、暮らしなのだと思った。

さて、豆まきと言えば、煎った大豆を「鬼は外!福は内」といいながら撒き、年の数だけ豆を食べる。それが関東(千葉)生まれの私の習わしでした。
子どもの頃はもっと食べたかったけれど、今は年の数食べるのが、なかなか難儀になった。

ところが、鹿児島に移り住んだら、豆が「大豆」じゃなくて、「殻つき落花生」でした。
なにやらコミカルだけど、撒いた後食べられるからでしょう。
落花生と言えば「千葉」なんだけど、その千葉でも落花生じゃなかったのに、なんとも合理的。。。

そういえば豆まきの謂れってなんだろう、とググってみると…
豆は、魔(ま)を滅(め)する、
豆を煎るのは、魔(ま)を滅(め)っし、射る(煎る)、だそうだ。

ふぅぅん、なるほど。
そんな謂れは知らなかったな。
知らないけど、そういう風習として、母から聞いて、やっていた。

風習も常識も、そうやって親から授けられたものが多い。
親だってろくにその謂れは知らずに。
今も自分の常識、というよりは自分の思考パターンの基礎は親から受け継いだものであり、縛られ続けている。
ほんの少し外の世界に出たら、当たり前だと思ったいたものが、当たり前じゃなかった。
自分では当たり前すぎて気がつかなかったり、気づいていても、嫌だと思っていても、なかなか手放せない。
もっとドンガラガッシャンっと自分の常識なんか壊していいのかもしれない。

始めてのお寺さんの節分会、豆菓子撒きで、撒かれた豆や菓子が頭に当たって若干痛いくらいだったけど、いい案配に私の頭のなかの魔を追い払ってくれたように思えた。