他人と自分の境界線を自然とひけた!

他人がやっていることができない自分はダメだと思ってきた。
でも、今朝は、
「私には私の事情があり、能力、状況、特性があり、、できないことはできない。でも、やれることはやっている。それでいい」
そう思えた。
今まで、特にこないだの西日本豪雨、ボランティアを、今までも、熊本も、エラブ噴火の時も、東日本大震災も、なにもできなかったと、人がやってるのにできない自分にダメ出ししてた。やらなくちゃと尻を叩いて、でもできなくて、申し訳ない気持ちと何かしなくてはと、消耗してきた。
でも、今、今回の事件に関して、私は表に出て意見を言うことはできない。同じような公に雇われの身の同士として、批判する側にたつことはできない。事情も状況も知るよしもない民の立場の人は、いくらでも正義を振りかざすことも、悪者を糾弾することもできるが。きちんと抗議して、世をただすアクションも必要だ。でも、それは無邪気な立場の人のすることだ。同じ公的機関に雇われてきた同類としても責められない。
そして、顔の見える相手を、責めることはできない。この狭い世間のなかで、繋がりある人を配慮なく責めることはできない。その人の顔が見え、そんな人ではなかったことは知っているのだ。何が彼をそこまで追い詰めたのか、その苦しさにもがいて、そして今きっとどうにもしようもない罪の意識に苛まれているに違いなく、なんと過酷な運命だろう。
そして、自分だってある意味同じ穴の狢で、紙一重のところにあると言っても過言ではない。程度の差こそあれ、ジャンル違いだが、心の弱さがある。魔は差すものだ。真面目だからこそ追い詰められ、苦しさに紛らすものが必要で、一度それに近づいてしまえば抗えないものなのだ。そう追い詰めた仕組みを恨む。状況を恨む。責任者の責任を問いたい。
思うことはたくさんある。襟はたださなくてはいけない。あってはならないことが起きた。と同時に同情する気持ちの方が勝る。
できないのだ、表だって糾弾することは。
だから、限られた信頼できる人に思いを伝える。
今やらなくちゃならないことも山積みで、私はそれをする。
それでよいのだと思えた。それが私のやることだ。

西日本豪雨の時、この責任感と罪悪感とでヨレヨレになった。
もちろん今だって100%スパッと割りきれてない。友人夫婦のことやら、なやら、どこにせんを引くかはいつも迷う。
でも、判断つかないけど、優柔不断だけど、全部のーNoって拒否するでもなく、全部Yesって引き受けてしまうでもなく、ケースバイケースを迷いながら判断してるんだ。
ちゃんとできてる、前よりも確実に進んでる。