無力感のはじまりは…

友人が離婚の危機である。
親しい友人がまた遠くへいってしまうかもしれない。
寂しさと同時に浮かび上がってきたある思い出。
それが無力感の根底にあるものだったと気がついて、目ん玉ひんむく衝撃。

子どもの頃、移動中の車の後部座席で寝ていた私は、両親のケンカする声で目が覚めた。寝ぼけながらに、ケンカを止めたいと思った。
寝ぼけたままのふりをして「うるさいなぁ」とかなんとか言った。
子どもにケンカしてるところは見せたくないはずだから、寝ぼけてるうちにやめてくれるかと、それを願っての子どもなりの作戦だった。父は私のいうことならなんでも聞いてくれる、それぐらいにかわいがってくれていたし、仲良しだった。
でも、ぜんぜん効果はなく、私は両親のケンカを止めることができないどころか、私の存在はそこにないかのようで、無力感をはじめて覚えた。

数年の時がたち、父は家の中で荒れ始めた。
はじめ、中学生の兄が標的になった。とても理不尽な理由で怒鳴り付けていて、どうして怒ってるのか、お兄ちゃんは悪くないよと止めに入ったが、止めることはできなかった。
さらに数年たつとターゲットは兄から母へ移った。毎晩ケンカしていた。止めに入っても、止めることはできず、あの頃の私にはなすすべはなく、その当時私にに火の粉が飛んでくることはなかったけれど、何もできず、ただ両親の怒鳴り合う声を、自分の部屋にとじ込もって聞くしかなかった。
毎晩だった。
家は鉛色だった。
暗い暗い暗黒世界だった。
優しかった父は、ある日暴君に変わった。
封建政治が家に敷かれた。
ずっと鉛色だった。
無力だった。
でもそこにいるしかできなかった。
助けを求める他の大人とか、他にいなかった。
友だちにも話さなかった。

あのとき、両親のケンカを止めることができなかった。兄を守ることができなかった。母を守ることもできなかった。
それが無力感の始まりだと、今友人の離婚の危機の中、彼らの娘のいたいけな姿に自分の姿が重なって見えて、痛ましい。

不仲なままの両親のもとで育つのも苦しい。
離婚して生活は大変になるだろうけれど、その方がいいこともあるかもしれない。

私もあの当時、「離婚しちゃえばいいのに。生活は苦しくなっても私も母を支えていく」そう子どもながらに思っていた。こんなにケンカばかりしているのに離婚しない母に対して「母は生活する自信がないから離婚しないんだ」と蔑む気持ちも生まれたことに、今こう書きながら気がついて驚いている。
母を見下し、認められないその根底はここにあるかもしれない。自立する強さも能もない女。

当時の母は度々具合悪くなることもあり、電気を消して暗い部屋の閉じ籠り、テレビの音も嫌った。リビングもテレビもつけず、電気も落とし、それでも心配で台所で寂しくただそこにいた。
のそーっと部屋から出てきた母は、ひとりくず練りを作り食べた。私が作ろうかと声をかけても拒否をした。私はなんの役にもたてなかった。そして彼女が私たちを気遣うことなどもちろんなかった。
彼女はとても幼い人だったんだ。母の愛とか未だに感じない。未熟で幼い、他人を思いやることができない人だ。

私が学生になると、今度は私が父と事あるごとに父と衝突した。
父に勝つことはできなかった。母は仲裁に入るが、何も有効な手立てはなく、板挟みにあい、苦しむ姿がさらに私を苦しめた。
母のために自分を押さえなければならなかった。私を苦しめる母のそのやり方を憎んだ。
私は父親の所有物じゃない!と反発した。
結局、就職を、私の意に反して決められてしまったことで、屈辱感と無力感は増した。

勉強もできないし、学歴も誇れたもんじゃない。強い意思や行動力があるわけでもない私は、父への反発で、これまでやって来た。親へのアンチテーゼ、それと同時に逆らえず、根底には認めてもらいたいという思い。

親元をできる限り離れた。一人立ちした。たくさん勉強して知識もつけた。理科も歴史も好きじゃないのに、環境って分野はおもいっきりその辺だった。生まれてはじめて勉強した。
たくさん勉強会に行き、新しい手法をたくさん仕入れてきた。頑張って頑張って、苦手な人前で話すことを、技術で身につけた。でも、付け焼き刃の手法に根本的な自信は持てなかった。努力を重ねて、やっとできるようになったことも、自分の自信には繋がらなかった。できるようになってしまうと、できて当たり前の事と思った。あんなに努力したのに。自分で自分を認めてあげてない。

絵や工芸が元々得意だった。努力もしてないのに、Aとか5とか最高評価しかもらったことないし、賞状もたくさんもらった。でも、賞状を持って帰っても母は誉めることも嬉しそうな顔をすることもなく、下を向いて賞状を眺めて、そのまま丸めて筒にしまった。場所を取って邪魔なのよ、と迷惑そうに言った。賞状をもらっても誉めらることはなかった。賞状は迷惑なものなんだと思った。だから賞状はあんまり好きじゃない。
絵を習わしてもらうことはなく、苦手な音楽をやらされて、習い事は大嫌いで泣いてやめることばかりだった。
兄は私よりもっと絵が上手だった。兄の真似をして絵を描いていた。兄には敵わないと思っていた。でも兄が絵の道を進むことを親は許さなかった。兄ができないのを私ができるとは思えず、トライもしなかった。もし私がその道に進んでしまったら、兄に悪いとすら感じていた。また、得意な絵で誰かに負けるのは怖かった。その道に進めば得意な人の中に埋もれ、負けるのが怖かった。親は応援してくれていないのだから。
うんと小さい頃に「絵で食べていけるわけがない」と母が言ったのを覚えている。あなた、あんなに色んな絵画や手芸教室に通っておきながら、あなたがお金を払って教えを請うていたあの先生たちは何?あなたの払ったお金で飯食ってるじゃん。
社会に出て、働くなかで、たまたま美的センスがいかせる仕事についた。展示物やポスター、印刷物にホームページ、自分のセンスが誉められたときは嬉しかった。正直自信を持っている。でも自信がない。
デザインの仕事で飯を食っていく人、たくさんいますけど!ママ!あなたはどれだけ世間知らずで、先見の明がないか!

それでも、私は好きなものをスキ、嫌いなものをキライ、そう言うことがずっとできなかった。
ある人が、好きなものをスキ!嫌いなものはキライ!とハッキリと言い、それがまたぜんぜん嫌な感じじゃなかったことにビックリして、その素直さに惚れ惚れして、憧れのような思いを抱いた。
そう、絵が好きだけど、もっとうまくないと好きとは言ってはいけない、そんな風に自分が縛られていた。こんな程度の絵ではダメだと思ってた。誉められても、下手ですと思ってしまう。他人の絵も、よくこの程度で画家と名乗るなぁと認められないw
まあ、そういうこだわりがあるのも、悪いことじゃない。職人魂みたいなものかもしれない。

ずっと自己肯定感の低さに悩んできた。
でもそれは、学歴の低さでも、親に認めてもらえないことでもなかったのかもしれない。
さらに奥深く、親のケンカを止めることができなかったという無力感に始まるんだ。親を助けられなかったという無力感もあったんだ。

でもね、それはあなたのせいじゃないよ。
あなたのせいじゃない。
ごめんね。ずっと気がつかなかった。
あなたは悪くない。
あなたは小さく、でも優しさと正義の心を持っている。
彼らは案外大声を出すことでストレスを発散していたんだよ。
聞いている君たちの方が辛かったね。
なにかしてあげたかったのに、拒否されたのも、フォローも何もないのも辛かったね。
あのね、実は親もさ、ぜんぜん完璧じゃないの。今あの頃の親の年になってみて、わかったよ。人間てぜんぜん完璧じゃないの。
なのに偉そうにしやがって、ねぇ。
わかんなかったよ、あの頃の君には。
でも、今はわかったんだ。
大人も完璧じゃないの。
ごめんね。許してあげて。ごめんね。


友だちの離婚の危機、どうにかならないかとアワアワしてしまう。
友だちがいなくなっちゃうのがすごくさみしい。
それと同時に、彼らの小さな子どもに、自分を投影して、なんとか引き留めたいと願ってるんだ。
いつも何も動けない、今度こそどうにかしたい、そう思ってしまってたんだ。

ここまで思い出させてくれて、気づかせてくれて、ありがとう。